『日本二十六聖人殉教記』から
『第十三章 この神の下僕らが堺から陸路長崎に送られ、道中で耐えた苦難と死の準備をしたことについて』から
(前略)
オルガンティーノ神父は彼らが完全に見捨てられて行くのを見て、三人のイルマンを世話するためにミヤコの善良な人を派遣し、必要な場合には手助けをするように幾らかの銀を彼に託した。
それは我らの三人のイルマンのみならず修道者及び他の信者をも世話するためであった。
修道者と一緒に彼らの信者で一人の若い大工が、その信心から最期まで彼らを見届けるまで付いて行くことを決めていた。
この二人は道中、捕縛された人々に自由に近付いて面倒をみていたためにキリシタンか否かと尋ねられ、信者であると答えたので、監視人は彼らを捕らえ、自発的に捕らわれ人と運命を共にするため、一緒に捕縛されるべきだと言った。
王の宣告文には二十四人しか記されていなかったが、この最初の監視人が次の土地でこの二人をも引き渡し、また、そのように次の土地でも引き渡し、ついにそのまま長崎まで連行し、半三郎は彼らを他の者と一緒にはりつけにした。
このことで処刑された人は二十六人となった。
この二人は捕縛されたことを悲しまず、それどころか初めから既にそのために準備していて、二十四人の至福なる運命にあづかりたいと望んでいたので歓喜し、我が主に感謝していた。
(後略)
『第十六章 神の二十六人の下僕らが十字架のある場所に着き、そこで十字架につけられた』から
半三郎はこの神の下僕らを罪人の刑場ではりつけにすると考えて、実際にそこには罪人用の数本の十字架があり、すでに他の十字架もあったが、ポルトガル人は彼らがその同じ場所ではりつけにされるのを見るに忍びなかった。
道の反対側には海にあたる方に町が見える丘があって、その上は二十六人を充分に容れる平地があった。
それは適当な時期に教会を建てるに好都合な場所で(その教会を「殉教者の聖母」と名付ける)、半三郎はポルトガル人の嘆願に応じてそこに十字架を立てるようにした。
正に敵した場所でカルヴァリオのように両側に登り口があり、この町からよく見えるので、信仰のために死んだこの神の下僕らに目を上げるたびに、その証をもって町を確認しているようである。
このようにその場所は世俗と悪魔から勝利を得た人々の旗によって飾られ、その血によって潤されているため気高いものとなった。
ある人によれば、十字架の形においても我が主は彼らが他の処刑された人々と区別されるようにお望みになった。
それは普通にそのような十字架は粗末な曲がった丸太で作られているが、この二十六人の十字架は真っすぐ四角の木で作られ、私達が使うもののようであった。
その形は普通両腕をとめる横木と下方の足にあたる所に足をつける横木があった。
使徒聖アンドレアが十字架にかかって描かれたように、十字架の中央に前方に短い木が突出ていて、そこに罪人が馬乗りになって体を支えていた。
従って十字架が四本の木で成り、一つは十字架本体、他は両腕のため、両足のため、そして残りは腰掛けるために突出した木で、次の絵に見られるように。
彼らは釘を用いず縄で手足を縛り、あるいは十字架の横木についている鉄輪でとめる。
時には縄を用い、ある時には鉄輪でとめるが、同時に手足と首以外に縄で腰をも縛り付け、腕と肘との間の両腕も縄で結わえつける。
このように全身をしっかり固定する。
この二十六人は鉄輪と他の三箇所を結わえられた。
言われた通り、体を十字架に結わえつけた後十字架を起こし、穴に差し込んで動かぬように石で固定する。
穴に十字架を差し込む時、体がひどく動さ、非常な苦痛となった。
十字架がしっかりと固定された後、刑執行人が十字架につけられた人を槍で突さ刺し、槍の穂先が右側から入って心臓を通って左側へ出て体を貰いた。
ある場合には、二人の執行人が各自槍をもって両側から刺し、穂先が胸で交叉して鎖骨に突き出る。
日本の槍穂は幅広く、長柄のうえによく切れるので、すぐ傷口からどくどくと血が流れ、体が震えて間もなく絶命する。
その槍で死なない時には首を突き刺し、または心臓めがけて左側から胸を突さ刺す。
この聖なる人々の数人にもそのようにした。
この神の下僕らの場合に利用された方法は、日本人の使うはりつけ方法である。
彼らはこの時我が主が彼らのためには死に給うた十字架と、自分達が主のために死ぬその十字架とを比較して、慰められることがあったが、主はその苦しみと共にすべての苦汁をお受けになり、私達には主の模範によって甘いものとなし給うたその苦しみをお与えになった。
方法が異なってもある程度まで主に倣っているのを見て、彼らは慰められた。
十字架上の主は裸になるまですべての着物をはぎとられたが、殉教者には他のものを脱がせても体を覆う一枚を残した。
主は十字架にかかる前に苦い葡萄酒が与えられたが、彼らには、この場所に着いた時信者は少しばかりの葡萄酒を用意した。
主は十字架を背負っていたが、彼らにはその苦しみがなく、他の人々が十字架を運んだ。
主はその手足を貫く釘で十字架につけられたが、彼らは傷を受けず鉄輪で十字架につけられた。
主は絶命するまで大きな苦痛を受けて十字架上にほおっておかれたが、彼らは大きな苦痛もなく直ちに絶命するように槍が突き刺された。
主はそこにいたユダヤ人に侮辱、冒涜されたが、彼らは尊敬され賛美され、信者は流れる血を布で受けていた。
主の服は兵卒達がくじ引きをしたが、彼らの場合には後で述べるように信者が彼らの形見として保存するために競ってその服を切り取った。
神の下僕らが十字架が置かれた場所に着くと、直ちに半三郎は十字架のある場所を鉄砲士、槍士に並んで取り囲ませ、その監視人が十字架から七、八歩離れたところにいて、その中には役人が執行人を除いて誰も十字架に近付かせなかった。
監視人達は武器以外に太い棒を手にしていて、二人の神父を除いて人々を誰であろうと威嚇するため殴打していた。
フランシスコ・パシオ神父とジョアン・ロドリゲス神父は半三郎とその代理人の許可を得て、処刑される人々を励ますため絶えず十字架のそばにいたが、時には彼らも殴打され、それを我慢していた。
彼らの一人は、我らの三人のイルマンとそばにいた人々を世話し、もう一人は修道者達とその右側にいた人々を世話した。
監視人が強打したので一人のポルトガル人は血を流し、数人の日本人が顔に傷を受け、その他に、数日の間床に伏した人もいたが、ポルトガル人、日本人であっても彼らを十字架に近付かせぬように止める力はなかった。
神の下僕らは十字架を見て歓喜した。
フライ・マルティノは声高らかに「イスラエルの主である神がほめ賛えられますように」と唱え始めた。
フライ・ペトロは既に天に目を向けて深いめい想にひたっていた。
前述した十二歳の修道者の同宿ルドビコは朗々として自分の十字架がどこにあるのかと尋ねた。
子供の背丈に合わせて十字架が準備されていた。
十字架を示されると情熱をもってそこに走り寄った。
各十字架と各殉教者に必要な道具と執行人が用意されていたので、時をおかずして十字架に縛られ、同時に立てられた。
彼らが示した勇気と歓喜を見るのは不思議なことであった。
コミサリオ神父はずっと動かず天を仰いでいた。
フライ・マルティノは感謝の詩篇を唱え、「主よ、御手に私の魂を」などと唱えていた。
イルマン・パウロ三木は説教者として捕らえられ、牢獄でも道中でもずっと説教してきたと同じように、今、自分がこの名誉ある説教台、即ち十字架上にいるので出来うる限り大声で次のように説教した。
「ここにおいでになるすべての人々よ、私の言うことをお聴き下さい。
私はルソンからの者ではなく、れっきとした日本人であってイエズス会のイルマンである。
私は何の罪も犯さなかったが、ただ我が主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。
私はこの理由で死ぬことを喜び、これは神が私に授け給うた大いなる御恵みだと思う。
今、この時を前にして貴方達を欺こうとは思わないので、人間の救いのためにキリシタンの道以外に他はないと断言し、説明する。」
この言葉の後、十字架につけられた時、御自分を十字架につけた人々の許しを御父に祈った我が主イエス・キリストに倣って、話を続けた。
「キリシタンの教えが敵及び自分に害を加えた人々を許すように教えている故、私は国王とこの私の死刑に関わったすべての人々を許す。
王に対して憎しみはなく、むしろ彼とすべての日本人がキリスト信者になることを切望する。」
イルマンはこの説教を非常に声高に心をこめてしていたので、監視の数人が、彼の言うことをよく聴こうと近付いた。
この話が済むと両側にいる人々に顔を向けて彼らを励まし、また「主よ、御手に」、「神の諸聖人よ、お出迎え下さい」などと祈った。
それほど元気に溢れていたので自分の前にいた人と話して、そこにいない他の人のために宜しくと伝えていた。
イルマン・ジョアンは彼の言葉を聴いていた人々を驚かすほど喜び、元気に溢れて十字架上から近くにいる人々を励ましていた。
神父は彼に気丈にして精神を怠らぬように「間もなく苦しみは終わり、神の御許に行くであろう」と言ったので、次のように答えた。
「神父様、御安心あれ、私はそのことを重々注意しています。」
フライ・フランシスコ・ブランコ神父も同じように、神に感謝と賛美の言葉を色々と言って、大きな喜びを表していた。
フライ・ゴンサロは大声で「天にまします」を唱えた。
前記の少年ルドビコは非常に喜び、一人の信者が彼に「間もなくパライソ(天国)に行くでしょう」と激励したので、勇躍するかのように十字架に縛られている体を上方に動かすが、手が縛られていたのでせめても指先を動かしていた。
このすべての事柄が信者、未信者共々驚かせ、彼らに激しい喜びを起こさせた。
同じように修道者の同宿でありルドビコより一歳年上であってその隣にいたアントニオは同じような喜びと穏やかな顔をして、信心溢れて天を仰ぎ、「イエズス、マリア」と叫び、ついで「子供等よ、神をほめ賛えよ」という詩篇を唱えた。
彼は長崎出身で、子供達が教理の勉強をしに行く時、私達が彼らに教えていたある詩篇を知っていた。
つまり全員が喜び、謙虚で信心溢れる態度と静寂な容姿で、ある者は「イエズス、マリア」と叫び、またある者は信心を起こさせる他の言葉でその場にいた信者に別れを告げたり励ましたりしていた。
聖トマが言うように、もし大きな愛徳がなければ快く侮辱によるこの死を享受できないということが本当であるかのように彼らの聖なる魂は、愛徳と神の愛で満たされていたことが確証される。
四人の執行人は槍を刺すためその鞘を払い始めた(日本人はいつも槍を鞘に納めている。)槍の穂先を目にした時、聖なる人々、そこにいたキリシタン全員が一斉に声高らかに「イエズス、マリア」と言いはしめ、最後の一人が息絶えるまでその声は続いた。
四人の執行人は駆けながら殉教者を刺していった。
各殉教者に二人の執行人、一人は左側から、他は右側から槍を刺し、この二本の槍で殆ど全員が息絶えたが、もしすぐ死なない者があったら、更に一、二度絶命するまで突き刺した。
その時全員が大きな努力と忍耐をもって苦痛で体を動かしたりうめき声を出したりしなかった。
傷口から血がほとばしり、そこの土を潤し始めた。
このように神の下僕らは創造主に霊魂を捧げ、栄光ある勝利を得た。
十字架上の彼らの体は、我らの聖なる信仰の忠実なる証人としてそこに高く残された。
この聖なる人々が罪なしに、ある者はただ福音を述べ伝えるために、他の者はキリシタンである故に死んだことが証明され、彼らが名誉を受け、その大義が正しく成されるように神の御摂理によって、半三郎は前述の通り、道中彼らの先頭に掲げられた死刑の宣告文を書いた制札をその場所に立てるようにした。
王の宣告文を忠実に翻訳すると、次の通りである。
「これらの者はルソンから大使の名目で来て、余が先年厳しく禁じた教えを説いてミヤコにとどまったので、彼らの教えを受けた日本人と共に処刑することを命じる。
やがてこの二十四人は長崎ではりつけに処せられるであろう。
余はここで新たに、今後もこの教えを禁じる故、皆、このことを心得としこ、これが実現されることを命じる。
もし、この命令に違反する者があれば、家族もろとも死刑に処するであろう。
慶長元年十一番目の月の二十日」
(後略)
『第十八章殉教者の順序とその他の細事』から
各十字架は三、四歩の間隔で一列に並んでいた。
町に向かって(その町のために祈っているようであった)修道者達を真ん中にして十人の日本人が彼らの右側に、他の十人はその左側に、その中には我らの三人のイルマンが交じっていた。
東の方から始めると次の順序であった。
一、フランシスコ・アダウクト(追加者)、修道者達に仕えた青年で、道中捕縛された。
(中略)
フランシスコ、修道者の家の大工で、八ケ月前に洗礼を受け、修道者の最後を見届けるために一緒に付さ添って来たが、途中で役人が彼を捕縛し、他の人々に加えた。
処刑されることが決まると、歓喜して準備し、私達の神父の一人に告解し、伊勢国にいる妻を信者にするようにと願った。
彼が死の便りを受けたときに示した忍耐と歓喜が、神父に大きな慰めを与えた。
(後略)