「靴を脱ぐということ」― レオ14世教皇就任に寄せての黙想
2025年5月18日、ローマで教皇レオ14世の就任ミサが行われました。
その説教を聴いていると、私の魂の深い部分が震えました。特に、彼が謙虚に宣言した次の言葉は、私の心に響きました。
「私は、何の功績もないのに選ばれました。今、恐れおののきながら、兄弟として、
あなたがたの信仰と喜びの僕(しもべ)となりたいと願いながら、ここに立ちます。神の愛の道を共に歩みましょう。
神は私たちすべてが一つの家族となることを望んでおられるのですから」
聖ペトロの後継者としての新しい使命は、決して容易なものではありません。それは計り知れない責任を伴います。
教皇レオが「恐れおののきながら」と告白したことは弱さではなく、彼の人間性と誠実さの証です。この謙遜さこそが、彼のメッセージに力を与えているのです。
彼の説教の核心は、一つの招きに要約できます:「神のもとへ歩み、互いに愛し合いましょう」
このシンプルながら深い勧めを通して、彼は教会全体に「神の愛の中で共に歩む」ことを呼びかけています。
ここで私から付け加えたいのは、「周縁(peripheries)へ行こう」ということです。
人々がいる場所 ——特にその家々—— を訪れましょう。ただし、受け入れられた時には忘れてはいけないことがあります:「靴を脱ぐ」神聖なジェスチャー
日本やアジアの多くの地域では、家に入る前に靴を脱ぐ習慣があります。これは単なる文化的作法ではなく、
「他者の神聖な空間に入る」ことへの深い敬意の表れです。そこには、相手の人生、喜び、傷に足を踏み入れることへの自覚が込められています。
これは聖書の重要な場面も思い起こさせます。モーセが燃える柴の中で神と出会った時、
次の言葉を聞きました:「あなたの足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である」(出エジプト記3:5)
つまり、靴を脱ぐ行為は伝統を超えた「神学的な行為」なのです。それは「聖なるもの」への認識、謙遜への呼びかけ、
そして私たちの足下にある大地(とそこに住む人々)を大切にする使命の想起です。
「靴を脱ぐ」ことは、畏敬(reverence)をもって対話に入ることを意味します。 先入観を捨て、相手の真の姿に触れ、耳を傾ける姿勢です。
これは、宣教における謙遜、異なる者同士の相互尊重、そして最も貧しい人々との連帯の象徴でもあります。
靴は「地位」や「立場」を表すことがあります。 しかし、裸足で立つ時、私たちは平等です。
共通の人間性と、大地 ― 特に社会の隅に追いやられた人々 ― に近づくべき使命を思い出します。
ですから、教皇レオ14世の言葉と私たちの使命を考える時、「共に歩む」ことは「靴を脱ぐ」というシンプルで神聖な行為から始まることを心に留めましょう。
― 謙遜に耳を傾け、畏敬をもって踏み入れ、愛をもって共に歩む。―

