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「聖書の言葉と独り言」
天使は言った。「神にできないことは何一つない。」マリアは答えた。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」天使は去って行った。(ルカ 1・37-38)
信仰とは、できないことは何一つない、何でもできる神さまに、すべてをゆだねる平安、幸いな心、生きざまのことを言うのかな。言うは易く、行うは難しだけれど。
聖書のマリアさんは、親にすべてをゆだねる幼子のように、天使の声に、謙遜に、きっぱりと答えている。30余年後、我が子が十字架上で殺される時でさえも。すごいなあ。
年をとれば取るほど、苦しくなればなるほど、マリアさんに倣えますように。
5月は聖母月、マリアさんに賛美の歌をささげます。アーメン。
週の初めの朝早く、マグダラのマリアは墓に行った。
イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」 
後ろを振り向くと、イエスが立っておられたが、イエスだとは分からなかった。
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、「ラボニ」と言った。 (ヨハネ 20・15-16)
はじめマグダラのマリアはイエスが分からなかった。
きっと、体はイエスの方を向いていたのですが、心が向いていなかったのです。忙しなく過す私たちの姿です。
心が向かない生活は、一生懸命していながら、むなしさと疲れが溜まります。
呼びかけられ、ハッとして心が向いた時、驚きと喜びが弾けます。
マグダラのマリアの復活の話しは、生活に追われる私たちへの、神さまからの愛の呼びかけです。
何か弾む希望が生まれる私たちでありたいものです。 
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つひとつの言葉によって生きる。」(マタイ 4・4)
困難や苦しさに負けそうな私たちを励ますために、イエスさまは、飢えられ、父への愛のパンだけを頼りに、荒野の悪魔に会いに行きます。
すると悪魔は、たくみに聖書の言葉を使ってイエスを試みます。
イエスは、「退け、サタン」、「主を拝み、主に仕えよ」ときっぱりと答えます。
悪魔もイエスも聖書の言葉を使います。何処が違うのでしょう。
悪魔には愛がなく、イエスには、その愛に溢れているのです。
私たちの信仰に、愛が宿り、困難や苦しさに負けませんように。
聖書は美しく表現しています。「悪魔は離れ、天使がイエスに仕えた」と。
天使が守ってくださる信仰が育ちますように!
「天の国は、畑に隠された宝を、見つけた人が、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買うようなものだ。」(マタイ 13・44)
・・・すべてを賭けられるって凄いなあ。
わたしなど、すべてにおいて中途半端だ。
畑とは何のことだろう。人の命の残された時間のことかな。きっとそうだ。
自分のこれからの残された命の時間だ。
神さまは、お前のこれからの生活をよく生きて、幸いな宝を見つけられるように、 頑張りなさいと、励ましてくださっているに違いない。
「人の子は、失われたものを捜して救うために来た。」(ルカ 19・10)
誰もが何の心配もなく、天真爛漫だった幼いころ。でも、年をかさね成長し、 それぞれの人生を歩むうちに、人間としての大切なものを見失っている。いや、 気づきつつ、それが大人と諦めて過している。
さわやかな笑顔がきつい顔に。何でも気持ちよくお手伝いしていたのに、 金にならないとばからしい気持ちに。素直で正直だったのに、嘘をつき誤魔化し、 明日を心配しなかったのに、不安で眠れないと言った具合に。
人は、子どもから大人へと大きく成長するけれど、神からいただいた命の大切な ところは、むしろ、幼いころにくらべて、悪くなるばかりかも。
唯一、あの馬屋の幼子だけは、無垢な幼子のまま、生涯を生き抜かれた。 だから、この幼子に出会うと、失ったものに気づかされる。
徴税人ザアカイは、イエスを家に迎えた時、その失ったものを取り戻し、 「きょうこの家に救いが来た」とイエスから祝福された。
ザアカイに倣って、イエスを迎えて祝福をいただかないと。
「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子、これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ 2・12)
布にくるまれた命は無力。生きるも死ぬも、周りの人次第。
人は布にくるまれ、愛の手に抱かれて育ち、 病院のベットで布にくるまれ、病いを癒され、 やがて布にくるまれ葬られ、天に迎えられ、神の愛のなかで永遠に生きる。
神の独り子は、人間の手に抱かれ、マリアとヨゼフの愛に守られ育ち、救いのキリストに。
クリスマスは愛の祝い。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、 罪人を招くためである。」(マタイ 9・12-13)
人は、当たり前のように、誰もが、体が悪くなると、 病院に行き、わざわざ、悪いところを医者に見せます。
でも、心はどうだろう。
人は、心が悪くなると、人に知られないように、隠そうとするのではないでしょうか。
お医者さんに、悪いところを治していただくように、 魂の医者、神さまに、心の悪いところを観ていただき、 健康な魂を取り戻せたら、どんなに幸せなことだろう。
「求めよ、そうすれば与えられる。」(マタイ 7・7)
私は何を求めているのだろう。富?名誉?地位?
イエスは「まず神の国とその義を求めよ。そうすれば、これれのものはみな加えて与えられる」(マタイ 6・33)言っておられる。
私はその肝心なことを忘れているから。
それでいつも歯車が狂っているのかも。
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