「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。
そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、
使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。
そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。
しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣ベ伝えているのですし、
あなたがたはこのように信じたのでした。」
(コリントの信徒への第一の手紙15章3節‐11節、下線は引用者による。)
コリントへの第一の手紙が書かれた当時(早くて54年、遅くても57年)、
復活したイエス・キリストに同時に出会った500人以上の人の大部分がなお生きていたのは、
少なくともわたしには、驚嘆に値します。実際に、そのような目撃者が生き残っていなければ、
パウロはこのようには書けなかったでしょう。
さらに、パウロは「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、
あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、
あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。
なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、
神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、
キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、
あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、
わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(同上12節‐19節)と言います。
パウロがキリストに出会ったことは、使徒言行録の中で、9章1節‐19節、22章6節‐16節、26章12節‐18節と、3回も述べられています。
パウロがキリストに出会ってからは、彼は、この世の生活でキリストに望みをかけているだけの生活を始めました。
もし、キリストが実際には復活しておらず、しかもパウロがキリストは実際に復活したと信じたとしたら、
「彼はすべての人の中で、最も惨めな者であった」かどうかは別なこととして、彼はそう信じていました。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」(同上20節‐21節)
三位一体と復活はキリスト教の奥義の基礎
キリスト教の信仰の根本は、三位一体の神です。神のご計画の中で、三位一体を人間に教えることがどれほど大切なことであるかは、
もし、洗礼の言葉に三位一体の父と子と聖霊 の御名が欠けるならその洗礼が無効になることからも知られます。
もう一方、キリスト教入信の門、そして試金石は、キリストと全人類の復活の信仰ではないかと思います。
キリストは、教会の建設の土台に12使徒を立てられましたが、使徒の条件は、生前のキリストを知っていることと、キリストの復活に出会っていることでした。
ユダが欠けて、その代わりにマチアが選ばれた時、ペトロは次のように言っています。
「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、
いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」(使徒言行録1章21節‐22節)
イエス・キリストが自ら復活されたと言っても、御父が復活させられたと言っても両方が正しいですが、復活はキリストの最大の奇跡です。
キリストの復活と、自分を含めた全人類の復活を認めると、大体、キリスト教を受け入れたことになるのではないでしょうか。
キリスト教の最も奥にあるものが三位一体の奥義であり、受容の入り口に復活の信仰があると言っても、復活の信仰は、単なるキリスト教入信の入り口ではありません。
復活は驚きの新事実
神は人間の創造と、イエス・キリストの派遣のご計画において、人間の栄光を、ただ霊的なものとはせず、体を持ったものの栄光とされました。
復活は、人間の創造と救済の基礎にあるものです。
わたしは、幼児洗礼の信者で、教会の信仰の中で大きくなりました。
わたしの育った環境では、キリストと世の終わりの人類の復活が、信仰の中で、あまりにも当たりも前のこととして扱われていたような気がします。
しかし、復活は、普通の人間の経験からすると、それほど当たり前のことではないと思います。
日本人の九割以上の人が、復活は信じられないと答えるのではないでしょうか。
そこで、信者は、この信仰を、感動をもって度々見つめなおす必要があるのではないでしょうか。
わたしの言葉でもこのことはお伝えしたいと思っていますが、この復活祭と聖霊降臨までの期間を、皆さんとこの想起に使うことができれば良いと考えております。
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