詩編は全聖書中でも特異な部分で、「旧約聖書の要約」という人もいます。
現代の聖書の中には、新約聖書と詩編が一冊になっているものも珍しくありません。
この一事からでも新約聖書と共に詩編を愛読する人が少なくないことが想像できます。
詩編は150編あります。ダビデの頃から捕囚の後まで、数百年にわたって書かれ、
また書き改められ、種々の編集を経て完成し今日に伝えられたものです。
全体の約半分は「ダビデの作」とされる73編の詩、「アサフの作」とされているものが12編(50、73‐83番)、
「コラの子らの作」とされるものが11編(42〔−43〕44‐49、84、87、88番)、
「ソロモンの作」とされるものが2編(72、127番)あります。
詩編は、賛美詩編、感謝詩編、嘆願詩編、信頼詩編、教訓詩編、王詩編などに分類されます。
さらに、賛美詩編は、賛美歌、ヤーヴェについての詩編、シオンについての詩編に分かれ、
感謝、賛美、信頼詩編はそれぞれ個人のものと団体のものとに分かれます。
また上記の分類のいずれかに属しながら、さらにアルファベット詩編、巡礼詩編、痛悔詩編、不正な裁判官を責める詩編、
神の教えをたたえる詩編などと呼ばれる詩編があります。
詩編は歌うことも唱えることも全く自由ですが、本文の初めに、たびたび「指揮者によって」
「伴奏付き」「賛歌」などと書かれていますから、歌うことを軽視することはできません。
事実、教会には古くから詩編を歌う習慣があり、特定の修道院ではそれが義務になっています。
この教会でも第一ミサの前に、その日の朝の祈りの詩編を歌っています。
まだの方はぜひ一度参加してみてください。
詩編は神の言葉として次の二つの役割を持っています。
第一は、神の民である私たちに対する神の言葉で、神の偉大さ、永遠性、無限の憐れみ、愛、
誠実などを教えること、第二は、私たちが如何に祈るべきかを教えることです。
その言葉遣いは親密感、信頼感にあふれており、時には無遠慮ですらあります。
聖ピオ10世が聖書について1911年に出された使徒憲章「ディヴィーノ・アッフラートゥ・スピリト」に引用されている聖アウグスチヌスの言葉は、
この辺りのことをよく説明しています。これはまた最も聖アウグスチヌスらしい言葉の一つだと思います。
「神は、人が神をどのようにたたえるべきかを示すために、まずご自身をたたえたのである。
神がご自分をたたえてくださったからこそ、人は神をたたえるすべを悟ったのである。」(「詩編講話」145‐1)
詩編の言葉のどこかに、その時々に、私たちがこのように祈ればよい、
あるいは祈りたいと思う言葉があります。聖ピオ10世は上掲の使徒憲章の中で、
聖アタナシオの次の言葉を引用しておられます。「詩編を歌う人にとって、詩編は鏡のようであると私には思われる。
人はその中に、自分自身の姿と自分自身の心の動きを見、感動して詩編を歌うのである。」
すべての司祭と特定の修道会の修道者たちにとって毎日唱えることが義務になっている「教会の祈り」
(以前はブレヴィアリウム「聖務日課」と言われました。)は、
それだけではないのですが、主に、4週間をかけて唱える、
ほとんどすべての詩編から成り立っています。
「教会の祈り」で用いられないのは、ただ58番、109番、そして137番の7‐9節です。
これらは、「のろいの詩編」と言われている詩編の中でも特に激しい個所です。
教会はこれを秘密にしているわけではありません。
個人では知っている方がよいでしょう。興味があればそのところも読んでみてください。
ヘブライ人は、悪いものは悪い、良いものは良いと徹底的に白黒を決めてしまいます。
悪いものはヤーヴェに逆らうもので滅ぼすべきものだと考えました。罪と罪びと
を区別するようなことはしませんでした。そこに私は現代にも何か有益な教訓があると思います。
何がその教訓かというと、その一つは、(私の考えですが)大変に酷いことをした人について、
神が正しい罰をお与えくださいますように、と願うことは、
正義にも、自然徳にも反するものではないということです。新約の「敵さえもゆるし、敵のために祈る」ことは、
その当たり前のことを否定することの上に成り立っていることを忘れるべきではないと思います。
今回は理屈の多い文章になりましたが、詩編は一つ一つを具体的に味わい、自分の祈りに用いるべきものです。
ちなみに、イエス・キリスト様が、十字架上で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味。
マタイによる福音書27章46節)と大声で叫ばれたのは、詩編22番を唱えられたのだという聖書学者の有力な説があります。
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